世界一熱い投資会社の日記(β版) -2ページ目

個人で株式を取得するという判断は

某不祥事会社の株式を
某ブロードバンド系企業の社長が個人的に株式を買い、
会社同士は提携をするらしい。

このニュースを最初に聞いたときに思ったのは
「考えたな」ということ。

会社で投資をしてしまった損失が出てしまったら
それは経営を行う上ではさまざまなリスクにさらされてしまうので
そこを回避しつつも、
社長としてチャンスに挑んでいくということを考えると
資産があるということもありますが、
とり得る選択肢ではあるなということ。

ただし、社長をしている会社と出資をしている会社が提携をするというのは
その持分によっては関連当事者取引となるのだから、
その取引内容等については、子会社にする以上に注意を払わねばならないので、
それはそれで動きづらくなる可能性はあるだろう。

しかも、今後どのような偶発債務があるか不明な渦中の栗を
個人の資産で買いに行くということと
そのリターンが本当に見合うものかどうかということについては
今後の動向を見守りたいが、
なにを目的として今回の行動に出たのかはいまいち謎である。

それがポータルなのか、金融なのか、そもそも資産目当てなのか。
ポータルにしてみても、すでにブランドロイヤリティはなくなりつつあり、
金融についても、コンシューマ向けのネット金融というよりも
法人向けの金融で収益を稼いでいたのでそこも信用力が左右するだろうし、
資産にしても、今後の動向次第では大きく毀損する可能性がある。

今回のディールはいろいろな意味で難しい問題を抱えており、
買収に至る過程よりも、
PMI(ポスト・マージャー・インテグレーション)にこそ注目がなされると思う。

※投資・投機は自己責任でお願いします。

おかしな話

某航空会社が長期間にわたって
修理をせずに飛行機をとばしたいたことを発表した。
(しかもその内容を数時間後により厳しい内容に修正している)

航空会社にとっては安全性に起因する信頼感こそが
ブランドロイヤリティであって、
そこを著しく毀損するような今回の不祥事は、
消費者の視点で考えるならば
私自身は選択肢があるならば、安全性という観点で
このような不祥事が出てこない航空会社の飛行機に乗りたいと思うし、
それは一般的な感覚ではないだろうか。
(これは人間の本能のような気がする)

上記の仮説が正しいとすると、
株式市場においては将来に対する不確実さの増加によって
売り込まれてもおかしくないと思うのだが、
実際の市場では一旦は売り込まれたものの
通常の立会日と同じ程度の変動におさまっている。

ここからどのような改善策が出てくるのか
(これは国土交通省の指導によっていま取り組んでいるところのようだが)
そして、そこの部分に関していかに情報開示していくのかというところがないならば、
企業としての管理体制が変化しているのかどうかが不透明であり、
このような積み重ねが大規模事故につながりかねないという気がする。
(今回の件も、判明して修理をしてからの発表であって、しかも内容を変更していて
 企業としての情報開示の姿勢がどうなのかと思う)

だからこそ上記のような点が明らかになって
改めて投資判断をするのが、
現時点で採りうる最良の手段なのではないかと考えつつ、
今日の証券市場の動きがおかしいなと考えるのである。

※投資・投機は自己責任でお願いします。

報道への違和感

某社の上場廃止決定を受けて
朝のニュースショーでは、
そのことを取り上げていた。

22万人の株主がどうなる

株主代表訴訟や損害賠償請求の行方

その一方で、
上場が廃止されても手元資金があるから
資金繰りは大丈夫
という話。

損害賠償請求を会社にされてしまったら
途端に資金繰りなんて悪化してしまうのだから
はっきりいって
上場廃止されたあとの未来の話なんて誰もわからない。

しかし、なんでマスコミは断定的な話をしてしまうのだろうか。
彼らのほうが悪意がない分余計たちが悪い。
無知であることは罪なのだ。
それを認めずにさも正しいかのように話をすることほど一番の罪なのだ。

また、一方で東証のチェック体制がどうのという話になっているが
ナスダックジャパンをはじめとした新興市場の設置によって
証券市場は多産多死型に移行したのであって、
それらは玉石混交なのだから、
それを見極めるのは投資家の自己責任なのだ。

そもそも新興市場が始まった当初はリスクが高いからと、
それを投資家が認識して売買するという確認書をとっていたくらいなのに。
(いまもとっているかもしれないが、形骸化しているということだろう)

At own your risk

この意識を改めて持つべきである。

結局数字なんてものは結果であって、
その数字を形成するために
会社はどんなことをしているのかということに思いを巡らせられなければ
それは投資ではなく、ただの数字をやり取りするだけの投機なんだと思う。

最後にみのもんたさんが老後のたくわえを某社株の購入に充ててしまい
数千万円の損失を出したという新聞記事を見ていっていた一言はある意味本質的だと思った
「老後の大切な資金であれば、配当を出していない会社ではなく、
 安定的に配当を出している企業に投資をしなければいけないのではないか
 配当を出していない会社への投資は上がるか下がるかだけの
 ギャンブルなのだから」
(うろ覚えで書いているので、一部間違っているかもしれないが、こんなニュアンスだった)

さすが視聴率が取れる男は視点が違うのだと思う。

※投資・投機は自己責任でお願いします。

ザ・ファンドマネージャー

ザ・ファンドマネージャー

こちらで紹介されていたマンガですが、ファンドマネージャーの仕事について
わかりやすく書いているので面白いです。

ただ、ちょっと華やか且つセンセーショナルに書かれすぎている部分はあると思いますが、
ベンチャー投資なども含めて、
投資活動は定量的な分析と定性的な分析の両方から成り立っていて
地道な調査や研究が結実する世界だということが理解してもらえればと思います。

今後の展開としては、金融関係者がどのような職業倫理をもって
それを守っているのかというところについても書いてもらえるとよいと思います。

なんでもアリでいろいろな情報が飛び交う業界だからこそ、
そこで働く人たちの職業倫理によって
秩序が保たれているのだということは伝えてほしいものです。

ソフトバンクのボーダフォン買収

こういう買収話は一見華やかなのですが、
実務経験のある私にとっては、
その手法や資金の手当てがどうなるのかということや
その買収後のポスト・マージャー・インテグレーション(PMI)は誰がやるのか
ということが気になってしかたありません。

今回は1兆円を超える買収ということですが、
かなりカツカツの台所事情といわれているSB社が
どのような奇策で手当てをするのか
ということに興味があります。

たしかに、今回の買収によって
FMC(フィクスドモバイルコンバージェンス)の整備が終わり
KDDIやNTTと相対する勢力となれると思いますが、
この買収によって消耗してしまわないことが大前提であるので、
心配ではあります。

日本におけるユーザは、
これによって携帯電話分野において
安価で利用できるということができれば
得をすることになりますが、
果たしてそれだけで片付けられるのか
企業の永続性(ゴーイングコンサーン)ということも踏まえて考えると
かなり背伸びをした買収なのではないかと思います。

ただ、アメリカにおける通信キャリアの再編に比べれば
買収規模はかわいいものではありますが。

ウェブ進化論 (前編)

「ウェブ進化論 -本当の大変化はこれから始まる」
著:梅田望夫(ちくま新書)


ネット業界にいる人にとっては、
何をいまさらという感じではあると思うが
先日から読みたかった本である
「ウェブ進化論」を読み終えた。

やはり視点としては、アメリカから見たネットビジネスの
今後という感はしなくはないけれども、
いま、改めてインターネットの本質や可能性ということを
まとめた本として確認の意味で、一読の価値はあります。

インターネットの「こちら側」と「あちら側」
という概念や
「不特定多数無限大への信頼」の有無
という定義は
インターネット上でビジネスを行っていく上での
一つのわかりやすい基準になるのではないか。

ネット上でのビジネスで、
Googleのアドセンスやアマゾンのウェブサービスのように
新しいフロンティアを作りだすことが非常に重要で、
日本では、まだメディアができたとしても
その広告枠を販売するだけの旧来型の収益モデルしか構築できていない
という指摘には、たしかにとうなずける部分ではあると思う。

しかし、もともと戦前・戦後の日本経済というのは、
世界に通用するような独自の収益モデルを構築したことはほとんどなく、
基本的には他国で作り上げられた収益モデルを取り入れて
より収益性を高いモデルに磨き上げる
ことで競争力をつけてきたのであるから、
いきなり自らが新しいフロンティアを築けるような収益モデルを構築せよと言われても
それができる人材がどこまでいるのか
というところは疑問である。

ただ、このような新たなフロンティアを作らなくても、
日本にはコンテンツ作成のノウハウは他国に引けをとらないものがあり、
いまさら、ウィキペディアを取り上げるまでもなく、
2ちゃんねるなどの掲示板を通じて、
不特定多数無限大の人たちによって
新たなコンテンツを生み出し、
「電車男」のようなメディアミックスとなる作品を作りあげる土壌がある。
(これは平安時代の連歌くらいから綿々と受け継がれてきた文化的土壌であると思う)

結局、技術力によってインフラを作ったとしても、
その上に魅力的なコンテンツやサービスがなければ
誰も使わないのは明白であり、
その中でキラーコンテンツを用意することができるのが
日本のネットビジネスにおける強みなのではと感じている。

とここまで書いて、
まだこの本を読んで思ったことがあるので、続きは後編で

楽しくなければゲームじゃない

任天堂DSのLiteが売れているようだ。

これまでのスペック競争によって、
楽しいゲームが減ってきているような気がした。

たしかに、自分自身が年齢を重ねて
ゲームに対する興味が減退してきているということもあると思う。

しかし、ゲーム機のスペックが上がるにつれて
ゲームソフトメーカーは大作主義に走っていたように思う。

制作期間が1年超となるような大作は、
たしかにゲーム機のスペックをフルに使って
美しいグラフィックなどがウリとなっているかもしれない。

しかし、ゲームとしてとらえるのであれば、
そのゲーム性はファミコン時代からそれほど進歩がないと思う。

ゲームに求められるもので一番大きいのは
やはりゲームとしての新たな面白さであり、
そこに好奇心や興味が湧くのだと思う。

スペックの向上によって
1作あたりの開発コストが上昇して、
おいそれとゲームを作るということが難しくなったこともあって、
新しいゲーム性の提案をする意欲的なソフトはかなり減っている。
つまり、現在のゲームは過去の焼き直しでしかないのだ。

だからこそ、PS2の出荷台数は非常に多いが、
1台あたりに購入されたゲームソフト数は数本という
非常に少ない本数になっているのだと思う。

そういう意味で、スペック向上競争からは一歩引いたスペックで
本来のゲーム性を追求している、
任天堂の携帯ゲーム機(ゲームボーイ、ゲームボーイアドバンス、ニンテンドウDS)は
本来あるべきゲームの楽しさを提供するということから王道であり、
だからこそ受け入れられているのだと思う。

しかし、それらニンテンドウDSの本当のライバルは携帯電話のJavaアプリで
あることもまた真であり、
現在は過去ゲームの焼き直しが主流であるそれらのアプリが、
新しいコンセプトとゲーム性を携帯電話という通信機能とあわせて提供しだしたときに
任天堂の本当の正念場となるのではないかと思う。
(ニンテンドウDSには通信機能はなくはないが、それ自体がメインではないので)

会社は誰のものか

「会社は誰のものか」
著:吉田望(新潮新書)

少し前に読んだ本である。

ちょうど、1月に投資に関する講師をやることもあって、
あらためて誰のものなのかということを
復習しようと思って年末に買っていた本である。

いわゆるライブドア事件が起こる前に書かれた内容だけに、
少し隔世の感はあるものの、
会社が誰のものであるのか難問に対して、
過去から現在に至るまでの、いろいろな仮説が整理されていてわかりやすい。
(※注:この場合の会社というのは、上場会社のことをさしている)

その中でなるほどって思ったのは、
米国ジョンソン・エンド・ジョンソンの「我が信条

株主主権が声高に叫ばれているなかで、
米国企業がこのような信条のもと、経営を行っているというのは
非常に参考になる。

顧客、取引先、社員、社会のすべてがあって
初めて株主主権が成り立つということはそのとおりであると思う。

日本においては、従来までは、
経営者主権というのが一番当てはまっているのではないかと私は思う。
会社は経営者のものであるかのような時代が長く続いた。

それが、近年のベンチャー企業の興隆によって、
大株主=経営者となるケースが増えたことや
過激な外資系ファンドの参入などが
行き過ぎた株主主権を主張するようになってしまったのではないかと思う。

経営者は、
顧客、取引先、社員、社会、株主のすべてがあってこそ
自身が経営者でたりうるのであるということを改めて認識すべきであり、
経営者に求められる一番のスキルは
これらのに対して誠実に接することであると思う。
(もちろん経営スキルは求められるが。)

会社は誰のものなのか
各企業はそれぞれ信条を持って運営されるべきであると思う。
そうでなければ上場(=パブリック・カンパニーとなる)しないほうがよいのである。

<以下、「我が信条」全文をコピペ>
我々の第一の責任は、我々の製品およびサービスを使用してくれる医師、看護師、患者、
そして母親、父親をはじめとする、すべての顧客に対するものであると確信する。
顧客一人一人のニーズに応えるにあたり、我々の行なうすべての活動は質的に高い水準のものでなければならない。
適正な価格を維持するため、我々は常に製品原価を引き下げる努力をしなければならない。
顧客からの注文には、迅速、かつ正確に応えなければならない。
我々の取引先には、適正な利益をあげる機会を提供しなければならない。


我々の第二の責任は全社員 ――世界中で共に働く男性も女性も―― に対するものである。
社員一人一人は個人として尊重され、その尊厳と価値が認められなければならない。
社員は安心して仕事に従事できなければならない。
待遇は公正かつ適切でなければならず、
働く環境は清潔で、整理整頓され、かつ安全でなければならない。
社員が家族に対する責任を十分果たすことができるよう、配慮しなければならない。
社員の提案、苦情が自由にできる環境でなければならない。
能力ある人々には、雇用、 能力開発および昇進の機会が平等に与えられなければならない。
我々は有能な管理者を任命しなければならない。
そして、その行動は公正、かつ道義にかなったものでなければならない。


我々の第三の責任は、我々が生活し、働いている地域社会、
更には全世界の共同社会に対するものである。
我々は良き市民として、有益な社会事業および福祉に貢献し、適切な租税を負担しなければならない。
我々は社会の発展、健康の増進、教育の改善に寄与する活動に参画しなければならない。
我々が使用する施設を常に良好な状態に保ち、環境と資源の保護に努めなければならない。


我々の第四の、そして最後の責任は、会社の株主に対するものである。
事業は健全な利益を生まなければならない。
我々は新しい考えを試みなければならない。
研究開発は継続され、革新的な企画は開発され、失敗は償わなければならない。
新しい設備を購入し、新しい施設を整備し、新しい製品を市場に導入しなければならない。
逆境の時に備えて蓄積をおこなわなければならない。
これらすべての原則が実行されてはじめて、株主は正当な報酬を享受することができるものと確信する。

99.9%は仮説

最近読んだ本

「99.9%は仮説  思い込みで判断しないための考え方」
竹内薫著 光文社新書

この本は科学分野における業績はすべて仮説であると
とらえることから考え始めることからはじめよう
ということを説く本であり、
それは、日常生活における常識は、すべてが定説となっていない
仮説に拠ってたっているだけであり、
そこに絶対は無いということを切々と書いてある本である。

たしかに、世の中に絶対ということは無いのであり、
すべてが仮説であると考えれば、
それに対する別の仮説を立てて、対抗すれば、
自身の仮説が主流となることもある。

それが社会というものだと思う。

特に社会や経済、政治においては、
科学と違い、反証性が必要とはされないという特性もあるわけなので、
すべての制約は自身の中にある常識なんではないかと
思えるような目から鱗の一冊だと思う。

ただし、自身の仮説が、法律の範囲を超えていないかどうかの
検証だけは注意をして行うことが重要である。
その判断もまた、人の仮説によって決まってしまうのであるから。

退職者数は会社の健康状態のバロメータ

退職者の多い会社はどこかに制度疲労や問題を抱えているのだと思う。

いくら、人材の流動化が激しい社会になったとは言っても、
いい会社であれば人材は定着化する。
社会の人々が働きたがる会社、魅力的に見れる会社は
投資対象としても魅力的であり、長期投資にはむいていると思う。

労働者は自分の時間を投資していると考えれば、
その会社に対して長い時間を投資できるのかということで
その会社にいるかどうかを本能的に考えているのだと思う。

現代において長期間同じ会社にいる誘因はマズローの欲求5段階説的にいうと
金銭的(生理的な欲求や安全欲求)ももちろんだが、それだけではなく、
会社を通じた自己実現や社会的欲求を満たすための
ものなのではないかと思う。

だからこそ会社は、従業員に対して明確な報酬制度を整備するとともに、
会社側の理念に基づいて、
業務を通じてどのような自己実現や社会的な成功ができるのかを説明する必要があり、
また、従業員のベクトルと会社のベクトルが合致しているのかどうかなどについて
常に意識をしておかなければならない。

従業員がやりがいと誇りを持って働ける環境を作ること、
退職者が出ない職場を作ること
これが経営者に求められる最大の経営的素養なんだと感じる。

まず簡単にできこと。それは従業員に対してウソをつかないこと。
経営者は一人一人に対してかけた言葉を覚えてないかもしれませんが、
従業員は覚えているものなのです。
そこでの発言がウソなのではないかと思ったときから、
従業員の心が離れていくのです。
(これは人間関係のどんなことでもそうなのですが)

「企業は人なり」

これを体言している企業は強い。

投資家の視点から勤続年数をチェックするのは、
有価証券報告書の中でしかできず。
しかも、平均勤続年数であるために、
人員数が前年に比べて大幅に増えるとこの数字は短くなる傾向にあるのです。
(逆に採用をほぼしていなくて、自然減しかない会社は数字が長くなる傾向にある)

これでは、チェックができないので、
せめて、当期中入社人数、当期中退社人数、退職者の平均勤続年数くらいは
掲載しておかなければいけないところだとは思う。
(これは、証券業界が労働者に関してあまり注意を払っていない証左でもある。
 記述内容はあとは平均年収と労使関係くらいしかないのだから)